愛は世界に溢れていると言いますが、そもそも愛って一体何でしょうか?

愛が分からない人は、一体どんな愛につまづいていますか?

・子供を可愛いと思えません
・夫に愛情が持てなくなりました
・親を大切に思えません
・恋人がいるのにほかの人を好きになってしまいました
・動物がキライです
・実は花や木などを美しいと思えません
・他国の人のことなど本当はどうでもよいです

人知れず、こんな気持ちを抱えて自己嫌悪に陥っているかもしれませんね。でも大丈夫です。

愛が分からなくなっている人は、本当の愛を知るチャンスを目の前にしています。

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愛と呼ばれるもののほとんどが、愛ではない

愛が分からなくなった状態とは、実は今まで愛のフリをしていた「別のもの」が、本当は愛ではないのだと気付いた状態です。
いくつか例を出して考えてみましょう。

「子供を可愛いと思えません」

この言葉の裏には、親は子供のことを可愛いと思えるはずだとか、可愛いと思えることが愛だという考えがあるでしょう。

確かに、子供をを可愛いと思う気持ちには、愛が含まれているかもしれませんが、愛とは、子供を可愛いと思うことではありませんね。また、親だからといって、子供を可愛いと思わなければならない理由もありません。

もし、子供を可愛いと思えていたら、それが愛だと勘違いし続ける可能性がありますが、可愛いと思えないのならば、「可愛い」と「愛」を切り離して考えることが出来るはずです。

子供を可愛いと思うことと、愛は、関係ありません。

「恋人がいるのにほかの人を好きになってしまいました」

この言葉の裏には、同時に2人の人を好きになってはいけないという考え方があるでしょう。

ひとりの人を好きになった気持ちの中に、愛は含まれていますが、ひとりの人を好きになることが、愛なのではありません。

また愛は、倫理や秩序や常識の中にもありますが、その枠の外にもあります。2人の人を同時に好きになっても、愛は存在します。

「実は花や木などを美しいと思えません」

美しいと思う心の中に愛は含まれていますが、美しいと思う心が愛そのものではありません。

つまり、花や木を美しいと思えないことは、花や木を愛していないとは言えないのです。

このように、実は多くの人が愛と呼んでいるものは、愛そのものではないものばかりです。

では、愛ではないニセモノの正体は一体何なのでしょうか。

愛のフリをしているものの正体

例えば子供を愛していると自覚している母親がいるとします。この母親は言います。

「私は子供のためを思って毎日手作りのお弁当を作り、将来のことを考えて習い事もいくつかさせています。最近、言葉遣いの悪いお友達と遊ぶようになり、少し心配しています。」

上記は全て、母親のエゴからの言動です。

もちろん、その中にも愛は含まれていますが、決して、毎日手作りのお弁当を作ることが愛ではないし、習い事をさせることが愛ではなく、子供の心配をすることも、愛そのものではありません。そして子供はどれも望んでいないかもしれません。

ほとんどの親は、子供への気持ちや関心や心配を、「愛」から来ていると勘違いします。しかし親が子供に与えることが出来るものは、多大なる親のエゴです。

しかしそれに気付いてもなお、親はエゴを子供に与えてゆかなければならないのだと覚悟した時、母親は自覚を持って、エゴと愛を分けて子供に届けることが出来るでしょう。

エゴのほかにも、愛のフリをしているものはたくさんあります。

執着心、寂しさ、依存心、恐怖心、自信のなさ、情、性欲、常識、義務感、理想、社会文化など、さまざまです。

これらを愛と分けて自覚することが、本来の愛を知ることに繋がります。

結局、愛とは何なのか

愛とは何かと一言で定義するのは難しいです。より象徴的で、より何にでも浸透しているものだからです。

自分の中に愛らしきものを感じる時、これは愛かと問いかけてみて下さい。

愛は、感謝でも、優しい気持ちでも、燃えるような気持ちでもありません。その中に愛は含まれますが、それ自体が愛ではありません。

愛とは愛でしかありません。そして全ての人の中にあります。

もし愛が分からなくなっていても、愛とそうでないものを剥がしてゆく作業を続けてゆけば、必ず自分の中に、揺るがない愛を見つけるでしょう。



WRITTEN BY 森川 七樹

森川 七樹
もりかわ なつき。 元ソープランドで働くソープ嬢。 また、10年以上の主婦経験もあり、家を守...